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「芋川用水の歴史」里山の景観が時を刻む

「芋川用水の歴史」里山の景観が時を刻む 「芋川用水の歴史」里山の景観が時を刻む

「〜飯縄山麓発〜白地図を夢色に」白地図をぬろう会/編著 より

かつて、米一粒を得るための水は、水一滴血一滴といわれるほど大切にされ、水争いが非常に厳しかったようです。平安時代末期には芋川地区に「羊川荘」がありましたが、用水は斑尾川などの小河川を水源とした縦堰でした。現在見ることができる芋川用水には、その後の長い歴史があります。(※1)
芋川用水は、慶長8年(1603)または天正8年(1580)に土木技術者の清水戸右衛門(現在の長野市篠ノ井にあった塩崎城の城主小笠原長詮の子)が開削しました。霊峰戸隠山を水源とする鳥居川の水を、信濃町戸草地籍にある取り入れ口から引き、芋川中村の大樋地籍までを通し、その距離は21.5キロにおよびます。巨岩、急傾斜地が続く上流部の工事は大変難儀を極め、多くの費用と人命を失ったと伝えます。その後、寛文の頃(1661〜73)に飯山藩普請奉行の野田喜左衛門(現在の兵庫県姫路の出身で、飯山藩の新田開発者)により、大樋地籍から下流の毛野、東柏原地籍にまで延長されれ、流末を斑尾川に落とし、総延長29.5キロの横堰が完成しました。
弘化4年(1847) 3月24日善光寺大地震により、普光寺川入地籍で芋川堰が崩壊し通水不能となりました。そのため、戸草から塩ノ入奥へのトンネルが江戸の技師高田屋喜三郎により施工され、嘉永2年(1849)8月に完成しました。しかし、嘉永3年(1850)1月、トンネル出口が崩壊し通水不能となり、従来の普光寺地籍を通っていた水路を大修繕して通水しました。危険な絶壁や山腹を通りながら、約370年のときを刻みつつ老朽化しつつあった用水は、昭和48年(1973)3月に上水道工事の水源確保とともに近代的な改良が施され、芋川隧道 (1012メートル)が完成しました。
地形に沿ってゆったり蛇行して流れる芋川用水の上段には、林やりんご園が広がっています。用水の下段には実り豊かな水田や人家があり、昔から山や畑とともに共存してきた人々の暮らしが垣間見られます。また、志賀の山並ゃ三国山系を望む景観もすばらしく、大入りプドウ園から見渡す広々とした景色は 実に開放的です。
長い歴史を刻む芋川用水に沿って歩くとき、私たちが目にするのは、豊かな、温かみのある、なつかしい里山の風景でした。

(※1)三水村誌(1980) 栗山昇氏編集「野田喜左衛門物」

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