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「牟礼神社」ケヤキの巨木と算額

「牟礼神社」ケヤキの巨木と算額 「牟礼神社」ケヤキの巨木と算額

「〜飯縄山麓発〜白地図を夢色に」白地図をぬろう会/編著 より

由来によれば、牟礼神社は中世の戦国時代のころ、矢筒城主 島津氏の鎮守として西暦1100年ごろから別の場所に祀られていて、二度も兵火によって焼失と再建を繰り返したようです。江戸時代に入って徳川幕府により街道が整備されると、慶長年 間(1596〜1615)には新しく牟礼の宿場が置かれました。そして、それまで矢筒山南方の表町地籍に住んでいた人たちのほとんどが牟礼宿に移転したのに合わせ、慶安4年(1651)に神社も宿場の中心に近い現在地に移転したとされています。(※1)
境内にある一番大きなケヤキはこの神社のシンボルです。目通りの胴周りが5.49メートルあり、神社が現在地に建てられたころに植えられたものだとすれば、350年以上の樹齢を持つことになります。また、これとは別に胴周りが3.81メートル のケヤキもありましたが、こちらは平成19年(2007)7月の新潟県中越沖地震の際、地震の5日後に突然倒れてしまいました。(注)このほかに境内に目立つ巨木としては、ケヤキが4本、イチョウが1本、杉1本があります。
牟礼神社祝詞殿には算額が奉納されています。算額というのは、数学の問題が書かれたもので、神社仏閣に奉納された絵馬の一種です。約350年前の寛文のころよりあらわれたもので、日本独特の習慣といわれています。奉納の動機は、神仏の加護 のおかげで難問が解けたとして、その問題を絵馬にして納めたり、自分の研究成果を同好者に知らせる機会として納めたようです。牟礼神社の算額は明治31年(1898)のもので、3人の和算家が一題ずつの問題を奉納しています。上水内郡北 部には当時の有力な和算家として、大倉村城山(長野市豊野町)の竹内度道(1780~1840)がおりました。牟礼神社に奉納した出題者は、神代村の屈(堀越)作右衛門、牟礼駅の大久保兼吉、倉井村の原定弥の3人で、いずれも度道の門弟です。和算の普及が優れた測量術にも波及し、江戸末期につくられた小玉 絵地図の測量人も竹内度道の門人といわれています。
牟礼神社に奉納されている算額の大きさは、縦62センチ、横180センチです。保管場所がよかったためか、100年以上もたつのによく原形を保ち、文字も絵も鮮明です。長野県内に現存する算額66面(平成17年6月現在)(※2)中の一つとのことで、大切にしたいものです。

(※1)牟礼村誌(1997)
(※2)小林博隆編(2005)「信州和算資料目録」 (注)年輪を調べたところ、ほぼ350年の木であったことが確認されました

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